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Friday, October 29, 2021

<今こそノムさんの教え(23)>「変化を恐れるな」 - 河北新報オンライン

 衆院選投開票日が迫る。きっと今回も投票率は劇的には上がらないだろう。「自分の1票で世の中変わらない」と腰の重い有権者も多いはずだ。「人を動かす」。これに野村監督も苦労した。一流選手ほど新しいことに挑戦、失敗して今の実力を損なうのを怖がる。野村監督が現状打破を願う相手に伝えた今回の語録「変化を恐れるな」。「今の時代、そんなこと仕事で言えるのか?」と思った中間管理職の皆さん、ご心配なく。名将も若手に殻を破らせるため、あの手この手を講じた。「俺の仕事は気付かせ屋」と言いながら。

東北楽天時代の野村監督。成長を願う選手に「変わる勇気を持て」と指導した=2007年3月、フルスタ宮城(当時)

 「名人が2人も来ている。こんな千載一遇の機会はないぞ。試しにこつを教わってみたらどうだ」

 東北楽天ベンチ、野村監督は通り掛かった若手投手を呼び止める。「今すぐ覚えろ」的な命令口調では決してない。目の前には西本聖(元巨人など)、川崎憲次郎(元ヤクルトなど)の野球解説者2氏。1980、90年代を代表する変化球シュートの使い手。どちらも度胸満点で強打者の内角をえぐり、最多勝に輝いた右腕だ。

 野村監督も含めシュート教祖のような3人。準備していたかのように、あうんの呼吸でセールストークを進める。

 まず西本氏が先入観を取り除くべく言う。「肘への負担が大きいとか言われるが、そんなことないよ」。川崎氏も続いて「握りも難しくない。ボール半分か1個分も変化すれば、面白いように打ち取れるよ」。

 そして野村監督が効能を説く。「いつの時代も打者の苦手は内角だ。シュートはもってこいの球。配球は相対関係だからおのずと基本の外角低め真っすぐがより効果的になり、投球の幅が広がる。川崎はそれで最多勝を取った…」

 再び川崎氏が「今思えば、もっと早く覚えていればよかったですよ」。最後に監督が「変化を恐れちゃいけないんだよ」と諭した。

 川崎氏は高卒2年目の90年12勝して、野村ヤクルトのエースとなった。91年も14勝。93年は10勝して、さらに日本シリーズで2勝してMVPに輝き、野村政権初の日本一に導いた。

 野村監督はことあるごとに勧めていた。「シュートを覚えたらどうだ。理由は俺が現役時代に一番打ちにくい球だったからだ」。川崎氏は快速球投手ながら、時折一発を浴びるのが玉にきず。だから速球と見間違うシュートがあれば、打者が「来た!」と振った球がわずかに差し込み、凡打にできる算段だった。

 しかし川崎氏にはしばらく伝わらなかった。パワーピッチングで活躍できていた。後年、転機が来る。右腕を手術してから再起を期す中で監督の言葉を思い出し、シュート習得する。すると98年に大活躍。最終戦で17勝目を挙げて単独最多勝を決め、野村監督退任の花道を飾った。

 野村楽天では一つの失投が即命取りになる救援左腕ほど使い手が出た。有銘兼久、渡辺恒樹、片山博視ら。横手投げから松井秀喜(元巨人など)ら左打者の胸元をシュートで突いた野村阪神時代の遠山奨志が手本になった。

 野村監督は逆に脅迫じみたやり方に出たことも。

 「一場は(トレード)市場に出してしまえ」

 野村監督が厳しい言葉をあえて何度も浴びせた存在が一場靖弘(第17回「固定観念は悪、先入観は罪」参照)。弱気の虫が見え隠れするマウンドの姿に変化を求めた。ヤクルト時代、似た扱いをしたのが、山本樹(たつき)投手。

 左腕は93年の大卒入団後3年間1軍定着できずにいた。野村監督は、山本をいいボールは投げるのに試合で精彩を欠く典型的な「ブルペンエース」とみた。96年、先発試合の前に野村監督は突き放して言った。

 「どうしようもない結果に終わったら、お前、今年でクビにするからな」

 尻に火が付いた山本はとにかく必死に投げ、プロ初勝利を初完投、初完封で飾った。その東北楽天版が一場のはずだった。しかし世代の違いか、言い方がきつすぎたか、効果は出なかった。結果「市場に」は現実となり、09年開幕前にヤクルトへトレードに。

 野村監督は若かりし日に「変わる勇気」を体感した。「考える野球」の始まりの逸話を紹介する。

 高卒4年目、南海(現ソフトバンク)で本塁打王に輝いた後、2年間数字が伸びず打撃不振に陥った。理由は明白。カーブが苦手だった。観客席から「カーブの打てないノ・ム・ラ」とやじられた。鶴岡一人監督に指導を仰いでも「勉強せえ」「球をよく見てスコンと打て」と言われる始末。

 愚直にバットを振って練習しても越えられない技術的な壁を感じた時、思った。「あらかじめ球種が分かれば打てる確率が上がる。頭を使って、配球を読めばいい」。根拠のないヤマ張りが忌み嫌われた時代、邪道とも思われるようなデータ導入に取り組んだ。

 「日本初のスコアラー」と言われた球団の尾張久次氏の協力で配球データ収集し、状況別の傾向を探った。さらに16ミリフィルムで投手を撮影。擦り切れるほど見て「神様、仏様、稲尾様」と恐れられた稲尾和久投手(西鉄)らを研究。球種ごとに違う投げ方の癖も見つけた。

 この体験を振り返る時、よく言った。「技術的限界を感じてからが本当の勝負だ」と。「感じる力」が突破口を開く鍵を握ると身をもって知っていたからこそ、指導者として「気付かせ屋」に徹した。

 半面、何を言ってものれんに腕押しの相手には「鈍感は人間最大の悪」と断じ、冷淡だった。「本当に苦労しないと、人は変わろうとしない。中にはクビになって、再雇用されたらまたぬるま湯という人間もいる」とも厳しかった。

 とすれば、筆者の推論だが、変わるべき状況で一歩踏み出さない人は「根っからの鈍感」「必死さが足りない」「頑固」などということになるのか? ここで妙に合点しないでくださいよ、中間管理職の皆さん。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

 筆者ツイッター「金野正之@河北新報『今こそノムさんの教え』の人」を始めました。ご感想、フォローなど、よろしくお願いいたします。

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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